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墓参り

 今日,父の実家のお墓にお参りをしに行った.私の父方の祖父母は私が小中この頃に他界した.当時のショックは大きかったが,今は時が経ち祖父母への様々な気持ちを俯瞰してみることができた.

 祖父母がいなければ父も私もいないということを考えると,先祖の出会いに感謝せねばと思った.そして両親が結婚しなければ,私がこうしてブログを書くこともなかっただろう.
 そのようなことを考えていると,ふと自分の存在が不思議になる.そうなると,私が中学の頃に考えたことが頭をよぎる.「生きる意味とは?」

 突然だが,あなたは生きる意味を考えたことはあるだろうか?私はこの世に不満があるわけではないけれど,生きる意味を考えたことは幾度となくある.例えば,地球は人類によって大変なことになっているが,環境を壊してまで我々が生存する意味があるのだろうか,とか.それでは人間以外の生物は存在し続けてそれには意味があるのだろうか,とか.
 
 考え出すと止まらないが,この考えには私なりの終着点がある.それは「生まれているからには精一杯生きる義務がある」という考え方.(自殺や安楽死を否定しているわけではないことは事前に断っておく.)
 まぁ,この世に生を預かることは,自身が決定できることではない.もちろん,誰が親であるかとか,どの国に生まれるだとかも同じくだ.ただ,生まれた環境,育つ環境はその人を決める大きな要素だと私は考える.そして,生きていくと様々な困難にぶち当たる.それが自分の力ではどうしようもないことだってある.
 祖父母の家にはコンクリートを破って生えている木や草が大量にある.草木が長い時間をかけて,コンクリートに力積(\(I=Ft\))をかけていたからだろうと父は話す.人間も時間は限られるけど,人生においての試行錯誤をしてみようと,そしたら何か見えるものがあるのではないかと,私はそう思う.私も中高の頃はとんでもない壁にぶつかり何回絶望したことだろう(成績の話とかではない).その都度いろんなことが嫌になり,投げ出したくなるが(時には投げ出してきたが),それでもなんとか前に進もうとしてきた.楽観主義だと非難されるかもしれないが,私はトライアンドエラーでなんとか前に進むのが生命の本質ではないかと考えた.